「在宅、そして……」



 平成二年十二月、温泉病院に入院。階段歩行はほとんど困難になる。温泉療法が何か効果はあるかもしれない、という思いだったが、症状は更に進み、風呂椅子に座ると立ち上がれなくなった。

 ある時、体が崩れるように倒れたことがあって、限界と思い退院する。一ヵ月半の入院だった。

 山あいのこの病院のことを思い出す時、なぜか感無量の思いになる。

 象徴的な意味では、あの病院が私のALSの岐路であり原点だった。健常者としての「私」に惜別し、障害者としての「私」を認め、受け入れるということでは。

「あの頃は、まだ自力で十メートル程歩けたんだなぁ」

 と切なく思い出す。

 明るく広い通路をさまざまな車いすが行きかい、杖をつき歩く人、麻痺した片足を引きずる人等々。この光景を始めて目前にした時、天井が高いためもあってか、白昼夢のような思いでたたずみ、

「ついに来てしまったか」

 と感じた。

 病院の裏の柿の木に、

「猿が来た」

「カモシカを見た」

 山の病院での忘れられない日々だった。


 平成三年三月、離婚し実家に戻り、療養生活を始める。リハビリ科に通院。耳鳴りで耳鼻科を受診。リハビリ療法は私の希望だったが、効果はなかったように思う。むしろ進行は早まったかもしれない。しかし、何もしないではいられない状況だった。後悔はない。

 ステロイドは維持量として十五ミリグラムを服薬していたが、やめた途端耳鳴りが生じた。心中穏やかな気持ちではなかったが、結局治らず今でも続いている。ステロイドの後遺症だろうか。


 車いす購入。J大学病院に検査入院。「ついに車いす!」という感慨もあったが、「これは楽だ!」という思いの方が強かった。それだけ歩行がつらい状況だった。

 病人は他人が思うほど悲観していないし、してもいられない。むしろ目先の痛みやつらさ……が、先決なのだ。

 この入院で初めて「ALS」の宣告を受ける。

 すでに医学書などで、「おそらくALSであろう」という認識は不確かながら持ってはいたが……。

 私の逆説的な、ひそかな期待は木っ端みじんに一蹴された。

「ついに……か」と。


 握力が下がり始める。難病検診の医師の勧めで「抗体検査」を実施。握力は二十キログラム前後に下がる。健康時は三十五キログラム程だったと思う。上肢に麻痺が出はじめた頃である。

「ルイス・サムナ症候群」というALSに似た症状の難病に、ステロイドが効果があるという症例が出て、それに該当するかどうかということだった。

 一縷の望みをかけたが、残念ながら陰性だった。

 歩行器を購入。リハビリ科の担当者に居室改造を勧められる。立ち上がることはできたが、歩くことは補助がなくてはできない状態だった。

 居室の改造の必要性を認めないわけではなかったが、なぜかその話は不愉快だった。

 極論を言えば、末期の患者に「棺桶はどうしますか」と言っているようなものだ。

 患者が言い出さない限り、先走った対応は、神経質になっている患者の気持ちをさかなでしかねない。

 その時々で対応したほうがよいような気がするが……。


 平成三年十二月、近隣の緊急病院に検査入院。往診の体制作りのための入院で、時に変わった検査はしなかった。

 この頃は完全な車いす生活だった。

 上肢の麻痺も進みはじめ、車いすを回すのも苦痛になりはじめていた。


 平成四年一月、昇降機を取り付ける。同年五月、居室にリフトを取り付ける。居室が二階のため階段が障害になった。階段を下りることは、腰をおろし、ずらせば可能だった。上りは足首にひもを付け、手でひっぱり上ったが、それも限界だった。

 居室を改造し、リフトでトイレにつないだ。


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