「入院、そして…」



 平成二年、一月、大学病院を自主退院。ほとんどなんの診察もないまま”放置”された状態だった。ステロイド剤の投薬を拒否したこともあって、医師とはよい関係ではなかった。それよりも仕事のことが気になっていた。


 同年三月、階段歩行がやや困難になり、杖を購入。通院しながらステロイド剤投薬を始める。通勤時のラッシュはかなり苦痛になった。ステロイド剤を拒否する猶予はもはやなかった。五ミリグラム(一錠)から始め、十五ミリグラム(三錠)までようすをみるとのことだった。


 投薬一ヵ月後、「CPK」がさがる。これは朗報だった。医師も予想外だったようで驚いていた。しかし五〇〇前後と高い数値ではあった。


 自転車のペダルをふみこむことができなくなり、ついに乗れなくなる。私生活でも仕事の上でも、いろいろ支障が出はじめる。この頃、上肢には異常はmりあれなかった。私の場合、明らかに下肢からはじまった。


 同年六月、再入院しステロイドの大量投与をはじめる。長期入院のつもりで勤務先に届け出る。仕事をすることは可能だったが、通勤に耐ええる下肢の状態ではなかった。「もういいや」と、思った。

 これを機に、職場に復帰することはなかった。ステロイド剤は最大六十ミリグラム(十二錠)を一ヶ月かけ増量投与した。

「CPK」が極端に下がる。不眠症になり、睡眠薬を常用する。「CPK」は二〇〇前後まで下がったが、筋力の回復はみられなかった。

 ステロイドの副作用はいろいろあったが、不眠症が一番ひどかった。この頃、かなり情緒不安定でもあった。


 平成二年七月、人事部付け、「休職扱い」の辞令出る。人事部付けは、予期せぬことではなかったが、ショックであり、なんとも無念であった。サラリーマン生活は十六年で終止符を打つことになった。

 多少なりとも順風満帆の人生ではあったが、一気に転覆してしまった。強風が吹いたわけではなかったが……。


 同年七月、ステロイドを中断し、再度「筋生検」実施。麻酔はするのだが、筋肉を採取する時の激痛はすさまじいものがある。左右の太ももに”キズ”が残った。


 ステロイド投薬を再開する。体重は数キロ増え、顔はむくみ、いわゆる「ムーンフェイス」状態に近かった。「CPK」はさらに下がり、一〇〇前後のほとんど平常値になった。

 週二回の採血データにかなり神経質になっていた。

 二回目の「筋生検」でも炎症はみられなかった。

 この頃、「CPK」のデータが唯一のよりどころだった。「CPK」が下がれば何とかなるだろう、と思っていたが……。

「CPK」にこどわっていたのは、なんとかALSを否定したかったわけで、ある時リハビリ科の医師が、

「ALSでも『CPK』が高いケースはいくらでもありますよ」

 と、あっさり言ってのけた。

「……」

 私の中で、なにかがコロンと、音を立てて落ちたような気がした。

 後に、医学書等で「ALSにはステロイドを使用しない」という項目をみたことがあったが、「私の場合」はどうだったのだろうか?

 三ヶ月に亘るステロイド投薬は、わたしにとってどんなメリット・デメリットがあったのだろうか?

 二回目の入院は、約六ヶ月に亘る長期なものになった。

 入院中は、たくさんのさまざまなお見舞いをうけた。ありがたいお見舞いも受けたが、反面つらいケースもあった。

 なかでも「かわいそう」に代表される「お見舞い」ほど残酷で悔しいものはない。この言葉の背後には同情二割、冷静なエゴ八割が潜んでいる。

 つまり、それは病人を前に我が身を振り返り「自分がこんな病気にならなくてよかった」という安堵感からくる不用意な言葉なのである。

 もっとも、病人の被害妄想からくる思い込みかもしれないが……。

 退院間近のある日、主治医はさりげなく、

「今のうちにやりたいことをやっておいたほうがいいんじゃないの!」と私に言った。


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