「気管切開まで」



 通院リハビリから在宅リハビリに切り替える。上肢の麻痺進む。区の施設から理学療法士の訪問リハビリをうける。機能回復というより関節の保護程度のものである。

 両腕が上がりにくくなる。食事は、顔をテーブルにつけ、手首を返しながらすませた。

 下肢に比べ、上肢の麻痺の進行は速いようだった。


 平成四年十一月、区より訪問看護婦の介護を受ける。上肢の麻痺、更に進む。午前中はヘルパーに三時間介護を受け、午後は訪問看護婦にリハビリを受けた。

 この「遅れてきた天使」との出会いは、私にささやかな夢を与えてくれた。同時に、私が思っていた以上に大きな支えになってくれていた。

 しかし、天使には羽がある。この「気まぐれ天使」は今はどこかに飛んで行ってしまったようだ。

 上肢はもはや指しか動かない。

 上肢の麻痺の進行は、速い、速い。まるで加速度がついたように速い。

 いろいろ工夫を重ねながら食事をしてきたが、スプーンが持てなくなった。指に力が入らない。なんともやりきれない。これはこたえた。


 ついに「完全介護」状態になった。自分では何一つできない。鼻に蠅が止まっても払えない。

 しかし、この病気は徐々に麻痺が進むためか、麻痺に対して防衛本能が働く猶予があるようだ。相当なストレスだったに違いないが、下肢ほどのショッキングな絶望感はなかったように思う。多少鈍感になったのだろうか。勿論、個人差はあるだろうが……。

「まさか、まさか……」の人生だ。

 数十万人に一人の宝くじに"幸運"にも当たってしまった訳である。


 平成五年三月、リフト付きワゴンで外出。呼気スイッチをメーカーに依頼、ベッドに取り付ける。平成五年夏頃、息苦しさを感じ始める。約半年間、月に一回程度の外出を楽しんだ。今に比べれば楽な外出だったが、当時はいろいろ大変だった。

「たかが手足が動かない程度で……」

 指の動きが悪くなり、呼気スイッチを取り付けた。こんなものがあるのかと思ったが、なかなか便利で優れものだった。

 夏頃、入浴中に息苦しさを感じ、いやな予感がしたが、暑さのためかと意に介さなかった。

 そのうち、排便の際にも息苦しさを感じ始め、「きたか!」

 呼吸までは侵されないのでは、と不安を感じながらも腫れ物に触る思いであったが……。このことはしばらく家族には伏せた。

 いよいよ気持ちが重くなってきた時期である。


 友人の看護婦の紹介で牧師の訪問を受ける。

 平成五年九月、定期診断およびカンファレンスがひらかれる。宗教に興味もなかったし、必要と思ったこともなかった人生だったが、ここにきて俄かに風向きが変わってきた。なにかに「救い」を求めたいという枯渇した思いだった。

 この頃は息苦しさも度を越し、腹部を押す補助呼吸器が必要になってきた。

 医師は覚悟をしかねる私に、「気管切開」を打診してきた。聞きたくない言葉だった。

「決心できたら、いつでもどうぞ」

 ぼんやりしていた山が、はっきりとした輪郭をもって私の前に立ちはだかった。


 平成五年十月、「気管切開」のため入院。同年十月二十六日、病室で洗礼を受ける。決心できた訳ではなかったが、夜、息苦しくなり目をさましたりして、入院せざるをえない状態・状況だった。

 入院後は不眠状態が続いた。

 気管切開により声を失うことへの、とてつもない恐怖、その後の苦悩を思うと……。ただ茫然自失の日々だった。  安楽死を考えたのはこの頃だっただろうか。気持ちがどんどん落ち込んでいった。

 今思うとノイローゼだったようだ。今まで経験したことのない、逃げようのない苦悩だった。精神的に一番辛い時だったように思う。

 そう遠いことではないが、いま振り返る時をもつことができるようになったのは、何か痛みを伴って複雑な思いではある。

 ともかく、なにかにすがりたかった、楽になりたかった。洗礼を受けることにためらいはなかった。

 遥か昔に聞いたことがある賛美歌がながれるなか、洗礼の儀式が行われた。

「なんでこんな病気に……」

 涙が静かに流れた。複雑な涙だった。

 来るべき苦難に対峙する決意の涙か。

 予想もしなかった不運にみまわれ無念の涙。

 あの時、病室から夕陽が見えただろうか。


 呼吸困難を起こす。

 平成五年十一月八日、気管切開手術実施。なにかのタイミングで呼吸困難に陥った。悶え苦しみながら、視界が暗く狭くなっていくのが分かった。失禁した。

 看護婦が走り回っていた。

「苦しかった。死ぬかと思った」

 その二日後に手術が決まった。私も医師ももう猶予はないと判断した。

 手術して楽になりたかった。もはや前後の判断はつきかねた。

 血ガスが正常値だったことなどから、

「まだ、(切開は)はやいんじゃないの?」

 耳鼻科の医師の言葉を耳にしたが……。

 手術直前に耳鼻科の医師が、

「スピーチカニュレのサンプルが一つあるので、それを使ってみましょうか」

 手術直後から発声可能なもので、このことがなによりも救いになった。

 気持ちが晴れ、覚悟ができたような気がした。

 声を失うことの恐怖から解放された。

「発声できるのですね?」

 何度目かの念押しだった。

「大丈夫、すぐ声がだせますよ」

 手術は病室で行われた。

「簡単な手術ですから、一時間ほどで終わります」

 途中で何回か麻酔を打ちなおしたようだった。

 切開したところで一時呼吸困難になり、パニック状態になった。それは、今までの鼻呼吸ではなく、腹式呼吸を切開した首でしなければならなくなり、それができなかったからである。

 取り乱した私の手を握った看護婦は後に、

「駄目なのかと思った」

 と言うほどだった。

 切開した後は、密閉されたふたを開けたように呼吸は楽になった。月並みな表現だが、

「生きていることは素晴らしい!」

 と、ほかに言い方が見当たらない。

「楽になったなあ」

 と、しみじみ思った。"そのときは"。

 こんなことなら、もう少し早く切開してもよかったかな、とさえ身勝手にも思った。プレッシャーから一時的にではあるが、解放された安堵感にひたった。久しぶりに熟睡できたように思う。

 自発呼吸がまだあったので、呼吸器は着けっぱなしではなく、何時間かは取り外すことができた。その訓練もした。

 しかし、当初の呼吸器とのマッチングには苦労した。精神的にも肉体的にもかなりの苦痛を味わった。ときに、涙するしかない屈辱をも。

 念願だった発声は何度かのトライの後可能になった。

 もちろん通常の声ではなく、コンピューターのメッセージボイスのようなオクターブがあがったような高い声ではあったが、私の意思通り発声できた。

「アーッ、アーッ、ダイジョーブ、ダイジョーブ、コエガデル、ウレシーッ……」


「私の場合」は三十九歳の時に下肢から始まり、約四年で上肢・下肢ともに麻痺し、五年で気管切開に至った。これはALSの標準的なパターンのようである。

 この病気の発症の経緯はさまざまなようであるが、一様にいえることは気管切開が一つの大きな山になるのではないだろうか、ということだ。

 気管切開に直面し、苦悩し、狼狽した。

 安楽死に逡巡したりもした。勿論医師が認めるはずもないのだが。

 こんな思いをしたのは私だけだろうか。

 逡巡した自分を責めるつもりはないし、後悔もしないが、今静かに思う、「仕方ないことだったのだ」と。

 日本ALS協会の松本会長が以前、「ALSは気管切開してからが"本番"」と言われたことがあったが、それは事実だった。

 厳しい山は越えたものの、いろいろな物を、少しずつ諦め、あるいは切り捨て、耐え……。

 私が洗礼を受けた理由の一つは、私の今の境遇を容認できうる価値の基準を、信仰によって見出せないか、ということにあった。

 あるクリスチャンから、

「あなたは、この病気によって神に選ばれた……」と言われたが、果たしていつになったらこの言葉を受け入れることができるだろうか。

 ALSの原因は、個人的には「ストレス」だろうと確信している。

 長期にわたるストレスがホルモンの異常分泌をきたし、ある種の中毒症状を誘発させ、それがなにかのタイミングで神経に作用したのでは、と。

 今後ますます進むストレス社会において、ALS患者は増える傾向になっていくのではないか。それも中高年に限らず若年層にまで及ぶのではと、思われる。

 一日も早い特効薬の出現が、切に望まれる。

 そして、神の御業が叶うなら、

「せめて手だけでも……、せめて足だけでも……、せめて自発呼吸だけでも……」


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