『適当は素敵』

2008/08/18

 



「適当」という言葉は、必ずしも、いい意味に使われていない。

「いい加減な」とか「いい加減に」と、使われている事が、ほとんどである。

本来、語原的には、そのような使われ方はしないはずだと思うのだが。

百メートル走の選手が、左右を見て、勝利を確認した瞬間に、

全力疾走をやめ、力を抜くシーンをよく見受けられるであろう。

もちろん、全力疾走で駆け抜ける選手も、いる事はいる。

前者と後者、どちらを支持するかは、賛否両論であろう。

私は、前者を支持するが、前者は余裕がなければできない。

こういうシーンは、他のスポーツでも見受けられる。

例えば、相撲である。

勝負があった瞬間に、安馬関は、相手に対する思いやりを見せる。

一方、朝青龍関は「だめ」をおす。

これなども、安馬関に余裕がなければできないが、

その相撲とりのキャラクターも左右される事ではある。

「適当」の本来の意味は、このような前者のシーンの意味ではないであろうか。

余裕を持って、物事に対応するという意味であろうか。

その意味では、「適当は素敵」なのである。

余裕を持って生きる事は、素敵な事である。

それは、キャリアがなければできない事でもある。

10の実力のうち、7割、8割で生きる事ができれば、

残りの2割、3割で笑顔が生まれる事もあろう。

必然的に、相手に対して、本質的な思いやりも生まれる事にもなる。

「適当」は、物事を笑いとばす原動力である。

残り短い人生を、「適当」に生きたいものである。