『「武士の一分」を観る』

2008/02/12

 



「武士の一分」というタイトルの、語呂の良さが気に入った。

ストーリーの展開も気になった。

この映画をきっかけとして、「一分」という言葉が流行るだろうと思った。

たとえば「政治家の一分」、「力士の一分」とか。

しかし、思いのほか流行らなかった。

それは、この映画があまり若い人には人気がなかったためであろうか。

主演の木村拓哉が嫌いで、見なかった人もいるようである。

逆に、この映画をみて、キムタクを見直した人もいるようである。

映画とは、微妙で難しいものだ。

「一分」とは、意地とかプライドと訳せるであろうか。

この映画を下級武士の悲哀とみるよりも、

夫婦愛の形とゆった方が、私にはピッタリくるように思われる。

山田監督は、様々な人の情けの形を表現する事に、

こだわっているようにみえる。

この映画は、脇役が形を固めている映画でもある。

2回目、3回目にみる時は、脇役に注目してみるのも、興味深く楽しいであろう。

小道具に、小鳥を使うところなどは、

監督の微笑みが想像できて、山田監督の余裕が感じさせられる。

この映画は、ふと、日常を振り替えさせる、魅力的な映画でもある。

随所に、日本画を想わせるような美しい風景シーンを、

みられるのも山田映画ならではの魅力の一つである。

しかしながら、いまや、総デジタル化時代に、

なぜアナログチックにこだわり追求するのであろうか。

その必然性が疑問に残った。

人の情けの形というものは、

デジタルチックには表現できないという事であろうか。

アンチデジタル、である。