『錯覚は楽しい』

2007/11/30

 




ALSに限らず、病人は、同情されることほど辛く、屈辱的なことはない。

それは、心理学的に差別的な感情があるからであろう。

同情する側はそんな意識はないと思うが。

同情している暇などないのが、

私のケアをしていただいているヘルパーの皆さんである。

個人差やキャリアの差こそあれヘルパーの皆さんも、

ALSが日常になりつつあるようだ。

私の介護をしている時は、

私がALSという事の認識は少ないようであるし、

私を健常者と錯覚する瞬間があるそうである。

それは私には好ましい傾向である。

しかし、吸引などをする時は、

私がALSであることを再認識するようだ。

あるヘルパーさんによると、

私と文字盤で会話している時に、

私の声が聞こえてきそうな気がするそうである。

まさに錯覚は楽しい、である。

私は、体のどこも動かないが、

下半身のあの部分だけは、皮肉にも,殆ど健常者と同じであることだ。

この事なども、ヘルパーさんにとっては、

私を健常者と錯覚する一瞬のようだ。

嬉しくて、やがて悲しき、定めかな、てか。複雑な心境、ではある。

私の介護を始めたヘルパーさんに、共通して言えることは、

私の夢を見ることである。

私が動いていたり、飲み食いしていたり、

話をしていたり、など等。

その皆さんの夢に共通していることは、

ALSという現実の延長の夢ではないことだ。

あるヘルパーさんは、私に怒られ怒鳴られながら

追いかけられた夢を見たそうである。

滑稽なことであるが、これまた、錯覚は楽しい、である。

どうせなら、私に口説かれている夢を見てほしいものであると、

つい調子に乗ってのぼせてしまうのである。

いずれも、ALSからの解放の一瞬であろうか。

ともあれ、錯覚は楽しい、である。