「当事者と第三者」

2007/6/23




映画『硫黄島からの手紙』の"いおうじま"が、

"いおうとう"に呼称変更されるという。

当事者としての旧島民の間では、

"いおうとう"が一般的に定着されているという。

島民にとっては、

"いおうじま"と呼ばれることは、屈辱的であったようだ。

我々第三者にとっては、"いおうじま"も"いおうとう"も、

さほど違和感を覚えないのだが。

当事者と第三者の間には、かなりの温度差があるということであろう。

私は、ALSの当事者であるが、

私の苦悩や苦痛を第三者にはなかなか分かりえない。

手足の位置が、1cmずれただけで、手足のしびれ感が違うのである。

口を聞けないことの恐怖感やストレスは、理解する術がないであろう。

呼吸器という延命装置は時に、殺人としての道具にもなり得るのである。

当事者と第三者の穴を埋めるには、

当事者の背景を理解することが一助になるのだが、

肉体的なハンディキャップは、理解しにくい。

その典型が、ALSであろうか。

それ故にALSは、難病中の難病と言われるのである。

私は、改めてALSのハンディキャップの凄まじさにぞっとするのである。

それは、当事者としても第三者としても、である。

さて、"いおうとう"だが、太平洋戦争の激戦地として有名であり、

アメリカ軍に"いおうじま"とよばれていたという背景を考えれば、

必然的に"いおうとう"と呼ぶようになるであろう。

それでもなお、"いおうじま"と呼ぶ人はいるであろうし、

そのことを責めることはできない。

ALS患者を前にして、「また、痰?」とか「また、文字盤?」とかいう

ヘルパーが存在するのは、否めない事実であるが、

それも第三者としては,仕方ないことではある。

当事者と第三者の温度差は、ある意味では必然なのかもしれない。

こうして、当事者と第三者の平行線は、

限りなく永遠に交じり合うことがないように見えるのである。