2007/4/2


『思い出は、美しすぎて』

私は、文学に興味、関心を持てたことは、幸運なことだと思っている。

明確な趣味を持っていることは、生きる上で拠りどころになるであろうし、通俗的に言えば、人生が、豊かに多角的になろうと思われる。

私の本格的な文学との出会いは、高校生の時であった。

何か小説を読みたいという渇望に似た欲求からであった。それは、誰に影響を受けたのでもなく、何に影響を受けたのでもない。私の中からの熱い思いからである。その意味では、遺伝子レベルの作用になるのかもしれない。

以来、近代の各作家から村上龍まで色んなタイプの作家を読みあさった。

中でも、私の感性にフィットしたのは、川端康成であった。

彼は長編が有名だが、真骨頂は短編にあると思われる。

彼の曖昧な文体が織り成す美の空間は、日常的な断片を見事に昇華させている。

一方、川端の影響を、受けたとされる三島由紀夫は、その文体が余りにも明晰で画一的なイメージを強要してしまう。

それ故、彼の作品は外国人受けするのかもしれない。

文体は人なり、文体は体質なり、である。

二人の作家は、共に、自らの作り出した形に固執し、拠り所にしていた。

やがて過信の余り、限界が訪れ崩壊する。

短絡的な言い方だが、何事も過信は禁物、ということか。

拠り所にするものが人になると少し厄介なことになる。人は物より、不安定で不確実であるからだ。

人は失意に陥ると、甘美な過去を振り返ると言う。私も例外に漏れず、忌わしい過去を覗いてみた。

いくらALSが日常になりつつあると言っても、18年は長い、長い、永井さん、落ち着いて介護をしてね。

死に直面し、苦悩、逡巡した日々が、淡白に蘇るから不思議である。余分な脂肪を洗い落とし思い出がスリムになって、フラッシュバックする。

時は、偉大な消化剤。あるいは、防衛本能の成せる技か。

あの忌わしい過去さえ、昇華させてしまう。

18年の闘病生活で、主に3人の方々には、介護は勿論、私にとって精神的な拠りどころになって支えて頂いた方々である。

そのうちの二人は、既に過去の人になり、アルバムの中にしか存在しない。残りの一人は、現在進行形である。

その方から、あることがきっかけでダメージを受けることになる。

私のような完璧に五体不満足な体の上にも、健康人と同じような精神的なダメージを与えるとは、神はなんと理不尽で、不公平なことであろうか。

この上どんな試練を与えようとするのであろうか。

来るなら来いと天井を睨みつけるのだが、8年間の思い出はあまりに美しすぎて、失うのが怖いような気がするのである。