2007/2/26


『ピートは、知っている』

お見舞いなどの訪問の時には、圧倒的に、お花をいただくことが多い。

時にはCDを頂くこともある。クラッシックをいただくとありがたい。飽きないし、今の私には耳障りが良いし心地よい。

たまには、演歌をコミカルな気分で聴きたい気もするが。

先日、ある方からトルコキキョウをメインにしたアレンジメントをいただいた。私がトルコキキョウを好きなことを知っている方である。

トルコキキョウを真ん中にして、名前は知らないが草花が取り巻いている。更にその周りをカスミ草が取り巻いている。

4種類程のフラワーアレンジメントである。片手の手の平に乗るほどの小さなものである。

いただいたお花を観賞するのは勿論であるが、そのお花を枯らさないように気を使う方が、ウエイトが高いだろうか。

以前、いただいたお花を、見るも無残に痛々しく枯らせてしまったことがあった。

花瓶の水がカラカラに乾いて、花が枯渇してしまったのである。以来、気をつけてはいる。

私は、鼻で呼吸していないので香りや匂いが殆ど分からない。

トルコキキョウが、どんな香りを持った花なのか知らないままでいる。なんとも、片手落ちの話であろうか。

先日、あるヘルパーさんが、私が歩いている夢を見たという。嬉しい話ではある。過去にも同じような夢を見たという話を、何度か聞いたことがある。

過去現在に、私の介護に関わっていただいた多くの方々の何人かは、私の健康体の夢を見たという。

これは、心理学的には、どういう現象であろうか。

夢の分析は、様々であろうが、俗に夢は予知能力があるとも言われている。ならば・・・。

希望的な観測は、さて置き。

私も、病が治った時のことを、考えなくもない。しかし、その発想はすぐに切断され持続しない。

悲しくも、自己防衛本能が働くのであろうか。

最近は、ALSの影響が目にも出始めて、長い間目を開けていることが困難になり、目を閉じていることが多くなってきた。

必然的に、様々な思い出や幻想が、走馬灯のように蘇りフラッシュバックすることもある。時には、万華鏡を見るように、目くるめく色彩豊かな思い出が錯綜することもある。

ALSは決して後退しない。私の存在を否定するかのように、体の隅々まで浸透し、私の体を陵駕しようとする。

いただいたトルコキキョウは2週間余り、その美しさと瑞々しさを、持続していた。

花弁の端が茶色くなり始めた頃、葉っぱだと思っていた草花のそれが、つぼみであったのである。微妙に膨らみかけていた。その数は十数個であろうか。見るものを圧倒する勢いで、今にも咲きそうであった。

まるで、トルコキキョウを応援するかのように見えた。エールを送っているようにも見えた。

トルコキキョウが、無残になる前に摘み取っておいた。

そのあくる日、なんと不思議なことに、殆どのつぼみが枯れてしまったのである。

トルコキキョウに、殉死するかのように。

ふと、ある方の面影が、浮かんではすぐ消えた。

目を開けると、テレビの上のぬいぐるみのピートが、一心に私を見つめ、微笑んでいるようであった。