2005/11/08

*映画「蒲田行進曲」のネタバレを含みますので未見の方はあしからず。


私は、「蒲田行進曲」という映画が大好きである。

この映画の封切りは、もう、二十年以上前になるであろうか。

当時は、つかこうへい監督の映画として、話題になったと記憶している。

この映画の最大の魅力は、トリッキーなエンディングにあると思われる。

これのみと言って過言ではないであろう。

陳腐なストーリー展開や、お決まりのドタバタも、

エンディングのための小道具でしかない。

その為に、三流を臆面もなく、堂々と主張しているし、

それは、清清しい程である。

俳優陣も、変な気負いもなく、伸々と演じているように感じる。

意表をつく手法は、よく短編小説でも用いられる。

この種の短編小説の名手は、小沼 丹 である。

彼の短編の、いわゆる、おちは、いつも痛快で、楽しく、愉快である。

トリッキーなエンディングは、洋画では、「スティング」である。

つかこうへい氏は、このトリッキーなエンディングを描くために、

この映画を作ったのであろう。

その意味では、彼も短編の名手であろうか。

この映画のエンディングでは、出演者、スタッフがうちそろって、

満面の笑顔で、例の、大正ロマンよろしく、

蒲田行進曲のテーマソングを大合唱するのである。

一瞬、我々観客は、意表をつく展開にあっけにとられるのだが。

「あっ!やられた!」と思うのだが、

次の瞬間には、我知らずのうちに、笑顔がこぼれているのである。

笑顔で合唱する出演者、スタッフの皆が、

「やられましたね。」と、言っているように見えるのである。

そして、そのテーマソングがしっかりと私の頭に残るのである。

その結果、つかこうへい氏の狙いは、見事に成功したのである。

トリッキーなエンディングではあったが、

そのさわやかさが、二十年も経った今でも、

甦る不思議な映画ではある。

発想の変換や意表をつく展開は、

人の気持ちをリフレッシュ、或いはリセットしてくれるものである。

その一翼を担うのが各種の芸術であろうか。

日常においても、習慣を変えるなどの、

行動の規範を変化させることで、

ささやかなトリッキー体験になりうるであろう。

私の人生もそろそろ、

意表をついたトリッキーなエンディングを迎えたいものですね、

銀ちゃん。