「立ち止まって振り向いて」(前書きに代えて)



 ALSという難病に侵されて十余年。さまざまな試み、意志はことごとく徒労に終わり、その残骸に今は言葉もない。

 病は加速度をつけ容赦なく進行し、ほとんどALS(筋萎縮性側索硬化症)の究極の症状を呈するに至った。 手足は動かず、話すことも食べることもできず、呼吸さえもできなくなり、人工呼吸器をつけている。

 不治の病に、希望を捨ててはいないが、もってもいない、という微妙なスタンスではあるが、安穏に過ごせればと思っている。

 ときに、そのバランスが曖昧になることもままある。

「漠然とした死」ではなく、「具体的な死」がそう遠くないな、と思っている。

 気管切開直前の切迫した状況の中で洗礼を受け、約五年。

祈ることに決してやぶさかではないが、祈ることによって何語とも物理的に成就することはない。 たまさかの偶然を神の御業と称するのは勝手だが……。

 ただ祈ることをもっぱらにし人事を怠れば、事態は好転するどころか後退することもありうる。 祈ることは鎮魂の域を出ないということを認識すべきである。

祈ることしかよりどころがない状況でも、神は無力だ。 が、しかし祈らざるをえない。残された目と耳に感謝して……。

 足の機能を失っても、あるいは手の機能を失っても、嘆くことはない。 目や口があるじゃないか、と。
 たとえ光を失っても手足や口があるじゃないか、と。

 こと肉体に限ったことにとどまらない。たとえば、友人を失ったというような場合においても、である。

 いずれも絶望するに値しない。残された機能をなおざりにすることなくみつめ、感謝すべきである。

 まして「五体満足」な人はその豊かな機能に不断に感謝し、酷使することなくいたわり続けることが必要であろう。

 かけがえのない機能を失うことを失うことを思えば、感謝の断念をすることなど容易なことだ。 失うことを思えば……。