「こだわるということ」は、この本の出版が決まってから書いたエッセイである。

私のALSなどに関しての考えをまとめたエッセンスもようなものである。

それを文豪の川端康成を引き合いにして論じた、冷や汗ものである。

10年あまり前は、余命数年と宣言されていたので、

絶望に身じろぎしないで対座していたが、

今は絶望をもてあそぶ余裕もできた。

絶望に鈍感になったのであろうか。

いずれにしても、時の効用には敬服する次第である。

時はすべてを飲み込み、拒絶することはない。

「まさか、こんな時が来るとは」と、感無量である。

そして、余命があと何年あるか知らないが、

今の私を鳥瞰できる日が、来るのであろうかとも思うのである。



「こだわる」ということ より抜粋しました。


遠くから、汽笛を鳴らしながら列車がやってくる。

ゆっくり、ゆっくり、速度を吸収しながら列車がホームに潜り込む。

この列車に乗り込まなければ、厳しい選択が残される。

鋭い汽笛の音が全身を突き抜ける。

すでにホームに人影はない。決断はつかない。

ALSという病気は、択一の選択を強要する。

最後の汽笛を合図に列車に乗り込む。

ホームに残り、「究極」の選択をすることはできかねた。

呼吸に明らかに障害がではじめ、その息苦しさはたとえようもなく苦しく切ない。

「こだわる」ことより、ともかく楽になりたかったのである。

気管切開をして声を失うことや、その後のことなどはともかくとして、

「具体的な死」を意識し始めた時期であり、混乱を極めた時期でもあった。

列車に乗り込んで数年。

さまざまな苦悩・苦痛は健常者とは比較にならないが、

安穏に暮らせることはこのうえなく幸福なことでもある。

家族のありがたさが、私にとっての至上の「よりどころ」でもある。

が、限度はある、精神的にも経済的にも。

事態を憂慮すれば深刻さは限りない…。

いずれ降車するときがくるであろうが、自らの意思で降車することはできない。

ALSを甘受するつもりはない。

また、歩いてみたいし走ってもみたい。

当然ながら、貧欲に食べてもみたい。

極めて日常的な生活をもう一度取り戻したい。

この「想い」は切実ではあるが、寝食をともにするにはあまりに重すぎる。

が、絶望も日々寝食をともにすれば、日常になりうるだろうか。

ALSごときに屈服しないという強烈な意志がなければ、列車に乗り込むことはできない。