「立ち止まって振り向いて」は、万葉集の

ひむがしの野にかぎろいの立つ見えて

返り見すれば

月傾きぬ。

を、ヒントに書いたものである。


また、川越福音自由教会の二十周年記念誌に寄稿したものでもある。

記念誌にふさわしくない内容ではあるが、

教会の皆さんに、今の私の気持ちを知っていただきたいと思い、

書いたものである。



この頃より「スタンス」という言葉を使い始めたのだと思う。

自分の意志や感情を表現するのに、

一番フィットする言葉を探すのは苦労することである。

逆に、自分の意志にブレのない言葉を探し出したときは、

快感の境地に近いものがある。

「スタンス」という、言葉も、そのうちの一つである。

気管切開を前にして、緊急避難的に洗礼を受けたものの、

不謹慎ながら神に対する不信感、疑念は深まる一方であった。

それ故に、

祈ることによって物理的に何事も成就はしない、

祈ることは精神的な安堵の域を出ないという認識に至ったのである。

しかしながら、祈らずにはいられないのが、今の私の心境である。

祈ることを、専らにして、人事を怠れば、事態は好転するどころか、

後退することもあり得るという信念、

ALSによって身に付けたものである。

既成事実にあぐらをかくことなく、常に、その概念を行使し続けなければ、

いつかは、裏切られる時が来るであろう。

いわゆる、『である』という認識ではなく、

『する』という認識である。

人事を尽くして天命を待つ、であろうか。

果たして、立ち止まって振り向いたら、

月は傾いていたであろうか とも思うのである。




ALSという難病に侵されて十余年。

さまざまな試み、意思はことごとく徒労に終わり、その残骸に今は言葉もない。

病は加速度をつけ容赦なく進行し、ほとんどALS(筋萎縮性側索硬化症)の

究極の症状を呈するに至った。

手足は動かず、話すことも食べることもできず、

呼吸さえできなくなり、人工呼吸器をつけている。

不治の病に、きぼうもを捨ててはいないが、もってもいない、

という微妙なスタンスではあるが、安穏に過ごせればと思っている。

ときにそのバランスが曖昧になることもままある。

「漠然とした死」ではなく、「具体的な死」がそう遠くないな、と思っている。

気管切開直前の切迫した状況の中で洗礼を受け、約5年。

祈ることに決してやぶさかではないが、

祈ることによって何事にも物理的に成就することはない。

たまさかの偶然を神の御業と称するのは勝手だが・・・・。

ただ祈ることをもっぱらにし人事を怠れば、

事体は好転するどころか後退することもありうる。

祈ることは、鎮魂の域を出ないということを認識すべきである。

祈ることしかよりどころがない状況でも、神は無力だ。

が、しかし祈らざるをえない。

残された目と耳に感謝して・・・・。

足の機能を失っても、あるいは手の機能を失っても、嘆くことはない。

目や口があるじゃないか、と。
たとえ光をを失っても、手足や口があるじゃないかと、と。

こと肉体に限ったことにとどまらない。

たとえば、友人を失ったというような場合においても、である。

いずれも絶望するに値しない。

残された機能をなおざりにすることなくみつめ、感謝すべきである。

まして「五体満足」な人はその豊かな機能に不断に感謝し、

酷使することなくいたわりつづけることが必要であろう。

かけがえのない機能を失うことを思えば、

感謝の祈念をすることなど容易だ。

失うことを思えば・・・・